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ヴィッテ
ヴィッテの家.Kamennoostrovsky prospect, 5 |
少しあとで、彼は銃声を聞きました。
皇 帝の軍隊が群衆を撃ち始めたのです。
1月9日は、ロシアの歴史において「血の日曜日事件」と呼ばれています。前日に、人民代議員の委任者がヴィッテの家に来ました。 彼らはヴィッテが皇帝に影響力を持っていると思って、ニコライ2世に対して労働者の要求に同意するように求めました。 何もしないと、明日大きいデモ行進が起こると警告しました。 ヴィッテは、皇帝にたいして影響力がもうないので、何もできないと答えました。 それは、真実だったかもしれません。ニコライ2世は、ヴィッテを嫌っていました。 その理由の一つは、 ヴィッテが極東でのロシアの政治活動に反対だったということです。
彼は、満州での積極的な政策にも、日本との戦争にも反対でした。 1903年の彼の財務大臣のポストからの辞任は、極東における政策上の皇帝との意見の相違によるということでした。
しかし、 1905年8月に日露戦争の平和条約を結ぶのために、ニコライ2にポーツマスへ派遣された人はヴィッテでした。
交渉の成功をねぎらって、彼に伯爵という貴族の称号を与えました。 このために、カラフト半分の伯爵というあだ名がつけられました。 契約によるとロシアはサハリン南部を割譲しましたから。
1906年に彼は政治から辞任されました。1915年に彼はこの家で亡くなりました。
2年後、政治体制が完全に変わり、皇室はボルシェビキに殺されます。
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