11 Jun 2016

日本とサンクト・ペテルブルク。 レビュー記事




ネフスキープロスペクト

 サンクト・ペテルブルクと日本は、昔から深い関わりがあります。サンクト・ペテルブルクの創皇帝ピョートル1世は、当時既に日本との外交関係の樹立について考えていました。彼は限りなく精力的だったので、それほど遠い国との関係を築く計画をたてていたこと驚くべきことではありません。 そして、ピョートル1世は日本人と個人的に知り合った最初のロシアの皇帝であるかもしれません。 その日本人の名前は、「伝兵衛でした。  彼は、漂流してロシアにたどり着き、ピョートル1世の命令によって日本語を教えるためにロシアに残りました。彼はロシアで日本語を教えた最初の日本人とされています。
 ピョートル1世と伝兵が知り合った1702ことです。 そして、サンクト・ペテルブルクの建設は1703年に始まりました。
ということは、日本とロシアの関係が始まったこととサンクト・ペテルブルクの創立はほとんど同時期の出来事です

最初の日本人がロシアにたどり着いた時代からもう長い年月が経ちました。 時代は変わりましたが、幸いにも、サンクト・ペテルブルクは都市の歴史観が非常によく保存されています。 建物の多くは、それら見ると、歴史を語りかけてくるようです。 それら中には、日本に関連した歴史が刻まれている建物もあります。
私はそれらのいくつかをご紹介したいと思います。それでは、一緒に散歩しましょうか。

  セルゲイ・エリセーエフ

ネフスキープロスペクト/ ビル56
 ネフスキープロスペクト大通りを散策しているとアレクサンドリンスキ劇場の向かいにある目立つ建物気づくことでしょう。  1917年の革命は、その建物はロシアの大富豪グリゴリ・エリセーエフが所有していました。  一階に豪奢な店がありました。 グリゴリ・エリセーエフは日本に関係がありませんが、彼の息子セルゲイは、有名な日本研究者でした。 セルゲイ・エリセーエフは、父の事業を引き継ぐことを望まず、日本に留学しました。 彼は日本で高等教育を受けた最初のヨーロッパ人になりました。しかし、残念ながら、革命の後、彼はロシアを去ることになりました。
フランスやアメリカのハーバード大学で働いていました。
ところで、その建物には今も店があり、元の所有者の名前を記念してエリセーエフの名前がつけられています。

 
 日本赤十字

エリセーエフの店がある建物の近くに、第一次世界大戦中、日本とロシアの関係の記憶を保っている建物があります。ロシアと日本はこの戦争の時、同盟国でした。 1914年12月から1916年4月までこの建物日本赤十字が使用していました。
この建物は、現在放送会社が所有しているので、ラジオの家と呼ばれています。




 廣瀨 武夫


Площадь Искусств
ラジオの家から5分ぐらい歩くと、ロシアの有名な詩人プーシキンの記念碑が建っている広場に出ます。 プーシキンの詩を日本語に訳し最初の人が誰だったかご存知でしょうか。廣瀨 武夫かもしれません。 彼は大使館付海軍武官としてロシアに駐在していました。5年間、サンクト・ペテルブルクに住んでいました。彼が住んでいた最初のアパートは、 プーシキンスカヤというプーシキンにちなんで名づけられた通りにありました。廣瀨はロシア文学を学び、プーシキンのも好きになりました。
プーシキンスカヤ通り 11 / 廣瀨 武夫の最初のアパートがこの建物にありました

プーシキンスカヤ通りは、この広場から20 分ぐらいですが、今そこに行きません。別のルートで、ネヴァ川の堤防まで歩きましょう。
 
ノヴォ・ミハイロフスキー宮殿
Дворцовая набережная, 18


ネヴァ川の左岸まで歩くともう一つ面白い建物が見えてきます。   もともとはロシアの皇族、ロシア大公ミハイル・ニコラエヴィチのために建てられたノヴォ・ミハイロフスキー宮殿という建物です。  現在ここには東洋古籍文献研究所があります。
 そこに保管されている日本の写本類のコレクションは3000冊ほどです。日本の写本や木版本の総数です。


それらのうち最も面白いものはゴンザが編纂した露日辞書かもしれません。 伝兵衛と同じようにゴンザは海難でロシアに渡った日本人です。 ロシアの皇帝に露日辞書の編纂を命じられました。  これが世界初の露日辞典となりました。

  ニコライ・ネフスキー

Gorkovskaya station, Blohina str.17


ノボ・ミハイロフスキー宮殿の近くにある橋を渡ると、ネヴァ川の反対の岸に出ます。ここから遠くない場所もう一つ日本に関係がある面白い建物があります。
現在ここ住宅になっていますが、以前は研究所がありました。

それは東洋学研究所でした。政府は東洋学研究者たちにそこを宿泊所として提供したので、 彼らはこの建物で働いていただけではなく、ここで暮らしていました。 彼らの一人は、ニコライ・ネフスキーという傑出した日本研究者です。
 彼 は、1914年から日本で暮らしました。  アイヌ語の研究をして、 そして宮古島の方言の研究をしました。1929年に彼はサンクト・ペテルブルクに帰りました。1937年はロシアの歴史において悲惨な年でした。多くの文 化人や研究者が、スパイとして誣いられ、銃殺されました。もちろん、彼らは罪を犯してはいませんでした。ロシアはいろいろな分野の最高の科学者を失いまし た。 ロシアの科学にとってそれは大惨事でした。ニコライ・ネフスキーも彼の日本人の妻とともに銃殺されました。
ところで、宮古島市にニコライ・ネフスキーを称える石碑と 彼にちなんで名づけられた通りがあります。


クンストカメラ

 サンクト・ペテルブルクの博物館でも日露の歴史を少し見る事ができます。 例えば、クンストカメラという国立の人類学・民族学博物館では たくさんの日本の収集があります。
そしてここにロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)の日本の旅行についての資料があります。   博物館の倉庫には大津市事件が起こった後でニコライへ贈られたものが保存されています。 それらの中には常設展示で見ることができる武士の鎧があります。



 
 国立ロシア美術館 / ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン


国立ロシア美術館に行ったら ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンという画家の絵が展示されているホールを見てください。そこには彼が描いた日本を題材にしたいくつかの絵画があります。 それらは日本を訪れたときに描かれものです。日露戦争が始まる直前に日本の旅行しました。
実は、彼は戦争の悲劇をテーマとした絵を描いた画家として有名な人物でした。でも、そのほかに彼は東洋文化に魅了されて、東洋の文化ついても沢山絵を描いていました。 彼の日本への旅行の目的は日本文化と親しむということでした。
そして、ロシアに帰国後、日本を題材にした沢山の絵画を描こうとしました。 そして、ロシアに帰国後、日本を題材にした沢山の絵画を描こうとしました。

 しかし、その戦争について彼は絵を通して何も伝えることができませんでした。開戦の当初に画家は「ペトロパヴロフス ク」旅順艦隊の旗艦で不運なことに戦死してしまったからです

彼の死は戦争の悲惨さを映す挿絵ようなものになりました。
国立ロシア美術館にある彼の日本について書いた絵は、彼の最後の作品のひとつです。





 ドストエフスキーのペテルブルク / 二葉亭四迷

サンクト・ペテルブルクで有名な場所の一つにドストエフスキーが「罪と罰」を書いた家があります。しかも、ここへ来ると、ロシア文学を日本語に訳した最初の日本 の翻訳者についても学べます。1908年に朝日新聞特派員としてサンクト・ペテルブルクに二葉亭四迷が到着しました。 彼はドストエフスキーが住宅し た家のそばに定住しました。彼はドストエフスキーが見たサンクト・ペテルブルクを調べたかったようですね。



ヴォスクレセンスキ・ノヴォデヴィチ修道院 /  山下りん

  サンクト・ペテルブルクのヴォスクレセンスキ・ノヴォデヴィチ修道院に来こられた際には、山下りんを覚えて帰って下さい。彼女は、ロシアに留学に来た最初の女性と されています。 彼女は1881年にサンクト・ペテルブルグに着きました。そして、この修道院に宿泊していました。 ロシアに来る3年前に、彼女は日本で正教会に改宗していました。   教会の画家を志したりんは、ロシアで聖像の技法を学ぼうとしていました。  二年後、日本に帰りました。 こうして、りんは日本人最初のイコン画家になったのです。



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 当時サンクト・ペテルブルクは首都で、社会的で、政治的な人生の中心でした。 そのため、日本とロシアの関係もここで生まれました。
サンクト・ペテルブルクにあるクロン シュタットという小さい町には日露の友好関係の始まりを伝える顕彰碑があります。 1853年の遠征の顕彰碑です。この遠征の結果、日露の友好関係の始まりとされている日露和親条約が結ばれました。
日本とサンクト・ペテルブルクは文化的にも異なっていて、互いに遠く離れています。 しかし、二国間を結合する関係が常にありました。 この記事で出てきた人物もそのつながりの強化に貢献しました。彼らの人生をもっと詳細に学ぶとそれよく分かります。 サンクトペテルブルクの古い建物を見ながら、その人物について思い出すは、とてもしいものです。









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